昭和57年05月18日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
どんな難儀な時代でありましても、心を神様に向けておれば、必ずおかげになる。とこう確信と申しますね。その確信が私は傘一本だと思うですね。布教などに出られる先生方は、特に昔の先生方はそれこそ、傘一本で道を開かれたんですね。なぁにも無いそこからいうなら段々人が助かり、道が開けてくる。あれがなからなければ、これがなからなければ、こういう設備をしておかなければと言った様な事はない。もうとにかくお神様を背中にかついで、そしてまぁ言うなら行き当りばったりの布教をなさり。
そこから人が助かる。この神様をお供して行けば、この神様を頂いておれば、必ずおかげになる。そういう確信がなからなければ、とても布教には出られなかったと思いますよね。今福岡の西新教会の先代、もう亡くなられたと思いますけれども、国武という先生がおられました。この方は満州の安蒜(あんざん)でしたかね。に布教に出られるときには、何にも何にもただお社だけを持って行かれた。それでその安蒜でしたかね、の町に入られて行く所も無いから、公園のベンチでお神様を出して御祈念をされた。
段々日が暮れてきて寒うなってきたから、神様を寒い所にしては勿体ないと思って、まぁ折角泊めて貰うなら、良い旅館が良いと思うて、まぁその土地で一番日本人が経営しておられる旅館に入られて。まぁそれこそ一番良い部屋と思われるような部屋に、自分から通られたとこういう。そして神様を床の間にお祭りして、御祈念をしておられたら、そこの女将がやってきてあなたは金光様ですかとこう言う。私は今日からここの町で布教させて貰うのだとこう言われた。
まぁこれは不思議なご神縁ですねと。私は内地におります時に、金光様のご信心を頂いておったんですよと。どうかここの土地にもお教会を欲しいと思うておったと言う所に来たち。そういう働きが起こってくるんです。これは福岡の初代。小倉から福岡まで、まぁだ汽車がない時分ですから、お社を背中にかついで福岡の街に出られた。勿論福岡の街と言う所は、大変まぁ知識人と言うかね。
学者の多い所だから、自分のような無学の者ではとても道は開けまいと、時の教主様である所の四神様に、お取次をなさったら、吉木栄三馬鹿と阿呆で道を開けと仰った。頭がいうなら学問がないからというて、人は助からんと言う事はない。そういう四神様のお言葉やら、師匠桂松平先生の後ろ祈念があるから、絶対助かるんだと。絶対道は開けると言うて、福岡の橋口町と言う所に布教されたのが、始めてだと言う事でございます。背中に神様を頂いて行かれる。
その道中で何回も何回も、後ろのお社で、おいさみがあり続けたと言う事ですね。そう言う所に一つの人が助かると、いわゆる確信が生まれてくる。私は傘一本と言うのはそう言う事だと思う。確信だと思う。例えば仏教的には安心立命と、あぁいうものとはちょっと違うんですね。神様を信じて疑わない確信です。成程福岡に出られましたけれども、誰も人は助からん。もうお燈明上げる油を買う金も無くなられた。
それでここで人が助からんでは、四神様にも師匠桂松平にも相すまんと言うので、自殺をなさろうとしたんですね。元がお侍の方だったんですから、それこそ切腹しようと材木町の、何々と言う所で切腹をなさろうとされた時に、神様のお声を頂かれた。まぁいうならば死ぬる心で、神様へすがれという意味の事だったと思いますが、それから間もなく人が助かるようになった。それでまぁ大変なゴヒレイにまでつながって行った訳ですけれども。その神様を確信する。
昨日の御理解じゃないですけれども。これはもう合楽のまぁ独壇場と言う風に思うんですけれども。おかげというのが、様々な修行から生まれてくる確信ではなくて、合楽の場合には成り行きをより尊ばせて貰う、大切にさせて貰うと言う事。もうこれが最高のおかげの受けものである。たまにはたまにはちゃ時にはですよね。もうとにかく成り行きを受けられない様な成り行きがあってもです。それこそままよという心。
ままよとは死んでもままよのことぞと言った様な、いうなら一心を持って成り行きを大事にさせて頂くならば、それこそ十全のまぁおかげというかね。ただ一言二言の修行によってじゃなくて、そうした神様の働きそのものを受けぬかせて頂くという。そういう信心によって薫るようなおかげというのが、昨日の御理解でしたが。いわゆる自然を重んずる心。その中にはもう死を決するという思うような事もあろうけれども、そこを頂きぬくという。そこから助かりの手立ても付いてくる。
私は今日時計の針がこう、一分二分を刻んで行くね長針です。そすと短針の方はちょっと見とっても一つも動いとらんように見えましょう。けれども矢張り長針が動いている限りやっぱり、一時なら二時になり三時という風に、やっぱりこう進んで行く。ちょっと見には進んでいない様ですけれども、ね。長針が時をこう刻んで行っておれば、短針もやはりこう進んで行くと。
私は今日は何かこう新たな面が、また開かれるのじゃないかと思う様なお知らせを頂いたんですけれども。例えばお酒の好きな人。まぁ好きだけじゃなくて、人にもお酒のために迷惑をかける。酒のために身を滅ぼすと言った様な人があります。だからどうしても自分は酒を止めなきゃ出来んとこう思います。いわゆる断酒の心ですね。あれは善導寺の原さんでしたかな頂かれた。断酒の心菊作り。初めは何じゃったかね。あぁ黙々とね。「黙々と断酒の心菊作り」と言う様な、ご理解を頂いた事がありますが。
もう自分に酒があったら、もう自分はもうそれが命取りになる。でも止められんけれどもここ止めにゃと言うので、酒の代わりに菊作りを始めたというのでしょうね。けれどもね矢張りその断酒の積りであったのが、又酒に手を出したと言う事になる。そういう時ですね。私共が矢張り改まると言う事でもです。こら自分が改まらにゃ是があってはおかげにならんと、まぁ一心発起して改まってみるけれども出来ない事がある。
又失敗したと神様の前にも泣くにも泣かれん思いで、ご神前にお詫びをせねばならない時がある。所がねそういう時に、例えばただ泣きながらお詫びをしただけでは、矢張りおかげは受けられん様ですね。はぁもう自分のようなものでは、とてもおかげは頂ききらん。こんくらいな修行も出来んからという様な考え方では、おかげにならんです。だから出来ない事に取り組むよりも、そんならばそれこそ時計の分秒を刻んで行く長針のように、出来る事からやって行きゃ良いのです。
だから私はもうおかげ頂かれん。また失敗したこんな事で失敗する様じゃ、自分なおかげ頂かれんとそこに落ち込んだらもう、おかげにならんです。それはそれとして置いておいて、ね。いうならば長針がカチカチと動いて進んでおるように。例えばほんなら酒を止める事は出来んけれども、ほんなら朝参りなら朝参りだけはやろうと思や出来る。昔は大祓心行と言っていたが大祓心行十巻あげる。
こんな事なら自分が一心になってすりゃ、誰でも出来ると言う様に、誰でもやろうと思えば出来る事に取り組んでいく事です。その修業が成就いたします頃にはです。出来なかったはずの一つの動いていないかのように見える短針が。いつの間にか動いて一時が二時、二時が三時になって行っておるのに驚くです。これは私の体験から言うても、そうです。出来ない筈のが出来るです。問題はその分秒の方の長針の方をです。確実に出来て行きよれば良いと言う事です。
そしていうならばその断酒の心というものは、やっぱり出来ないながらもやっぱそれに取り組んで行っておりますとです。この分秒が進んで行っておるといつの間にかその好きであった酒も段々そう大して人に迷惑をかける様な事ではなくて。又はあんなに好きであったのが段々もう酒は要らんと言う様な風にですね。おかげ頂いて行くものだと言う事です。自分の様な者はもうおかげは頂かれんと思いこんで、やろうと思えば出来る修行も怠る所に、愈々落ち込んだおかげの受けられない世界に入ってしまうんです。
今日私はこの事を頂いてですね。これは私の体験ですけれども、三十年前一番私は難儀な時分に。誰にでも信心の心やすい方達には、私はおかげ頂かんはずは絶対ないち言いよりました。もうどんなに貧乏ならびんぼうのどん底にあっても、私がおかげ頂かんはずはないち。そすとみんなも私を知ってますから。いやあんたがおかげ頂かんはずはなかばのち。あんたがおかげ頂かんなら、金光様の教えはあらみんな嘘になるというふうに、皆も言うてくれました。
どんなに間それこそお社一つを、背中に担いでそれこそ満州あたりまでも、布教に出られた先生方のようにです。その一つの確信がある所から、今日の合楽は開けたと思おうです。今から考えてみるとそんなに言うほど、ほんなら素晴らしい信心が出来ておったかとは思われん。熱心ではあった。まぁいうならば今日のいうなら、分秒の針だけは間違いなくカチカチと動いておった。
今から考えてみるとまぁ出来ない事ばっかりだったでしょうけれども。そういう時に私は信心も出来んのに、信心も出来んのに出来たかのようにして、おかげを下さるようになるです。そのおかげを頂くようになるとです。いつの間にか今まで出来なかったと思う修行も、出来るようになってくるです。今日は皆さんこの辺の所をね、一つ今日は頂いて貰いたい。何かやろうと思えば出来る事を疎かにしては、おかげにならんです。出来る事。けれども出来ん事があるです。ね。
例えば酒なら酒の中毒をした人達が、酒を止めると言う事は、もう命を取られるようにきつい事だと思います。それでもこのために一家中の者が難儀をするから止めようと、まぁ断酒の心を起こすのですけれども。そして菊作りもしてみるけれども、また失敗をする。そこでほんならあぁもう自分な駄目だというたらもうお終いです。おかげは受けられんです。そしてほんならやろうと思えば出来る修行に。いうならば実意を持って取り組んでいかせて頂いておるうちに。いつの間にか動いてないように見える。
その短針も動いて一時なら二時、二時なら三時にいつの間にか、通って行くようなおかげを受けられると言う事を今日頂いて。これはもちっと、検討しなければならんと思いますけれども。もう私は出来ん私はとても駄目だと言う様な考え方はね。もう愈々おかげの受けられない心です。だから今日の傘一本で開ける道というのは確信という風に、今日は頂いて貰ったんです。私がおかげ頂いたけん筈はないと確信できる様な信心を頂きたい。そこにはほんなら改まる事一つ出来ない自分と言う所にです。
いうならば私は駄目だ。私はおかげ頂けないと言う様な考え方ではなくて、出来る修行に精進する事です。やろうと思えば出来る。そのうちにいわゆる神様いつの間にか。それこそ出来ない所が出来落ちない所が、今垢なら垢でもね。もう落ちない垢と思っておった垢がいつの間にか落ちて、本当におかげの受けられる、まぁいうならばお徳の受けられる心の状態が出来てくるんです。所がその落ち込んでしまって、やれば出来る修行まで疎かにするから、愈々出来なくなってくるんですよ。ね。
どうぞ。